ドクターホンソンのページ


ドクターホンソン と出会ったのは ベトナム医療チャリティー訪問が 盛んになり、私一人では 日・越 両方のニーズに 対応仕切れなくなってきた 
1996年の 訪越の頃であった。 彼は 30代初めで 雰囲気のある エンタテイナーという風情の若者であった。 名乗らなければ 医者には見えないタイプで、歌もうまかった。

しかし 大勢の 若手ベトナム医師通訳の中では、群を抜く 気配り青年でもあった。

我々が ベトナム中部 ダナン市に送った 心エコー機が 現地の暑さで 不調になり、ホーチミン市の医療機器会社出張所に 頼んでも 埒があかず、私が わざわざ 出張所に 乗り込まねばならない事があった。 そんな 難しい交渉事の時、彼のサポートが 本当に心強かった。

アメリカによる 経済制裁の真っ最中で、 ベトナムの道路には まだ地雷が埋まり、爆撃の跡に落ちると 大怪我もするし、交通機関はなかった。

慣れない炎暑と 風習の中 見知らぬ土地で チャリティー活動を支えてくれたのは こういう 堅実に仕事をこなす 優秀な現地の青年たちであった。

戦火の中を生き延びた世代の青年たちは、何事に於いても しっかりとノーハウを心得ている。絶対に 私の時間を無駄にさせず、私のエネルギーを最大限生かす方法を知っていた。 
その時は 彼の存在を 殆ど意識せず、誰が 一緒に 行ってくれたのかも覚えていなかった自分に、今更ながら あきれる事がある。

それでも 彼は、その次には 私の息子と一才しか年の違わない お嬢ちゃんと お連れ合いを 我々に紹介した。 息子と 女の子は 少しはにかみながらも 仲良くなり、ここでも 小さな親善の輪が広がった。

お連れ合いは 熱心に 貧しい社会主義の中で 独立採算の病院を作る方法を 私に尋ねた。 こういう 家族ぐるみの会合を 何回か持った。
彼は オーストラリアに脱出した兄弟がいて、サポートも少しあった。私たちが 彼に した事は これくらいで、いつも もう少し 具体的な支援を しなければー と 気に掛かっていながら 何年かが過ぎた

私の身辺にも 年月が流れ、ベトナムも アメリカからの経済制裁が解かれ、我々の関係は 緩やかになって行った。

そんな ある日、私が 丁度人生の一大難関と 感じられる局面にあった時、ベトナムから 大きな 荷物が届いた。 
向こうから こちらに 荷物や郵便を送るのは 莫大な費用がかかる。 一体 誰が こんな大きな物を送ってきたのか・・。 開けてみると 何と 立派な大理石の置物に 病院の写真が刷り込まれている。 同封されている 病院のパンフレットや案内も すばらしく、とても 伊藤病院の 貧しいパンフとは 比べものにならないー。


どうやら 病院を デラックスな数階建てに 増築した 記念品らしい。
病院の名前も 日本語とベトナム語に通じる名前になっている。

いつまでも 忘れずに、こんな激励を ドクターホンソン一家から いただけるなんて、思いもよらなかった。  きっと 私が 彼らの成功を 一番喜んでいる事が 解ってくれているのだろう。

チャリティー人生の中で お互い 海を越えて 支えあっているのを 実感したのでした。