ドクターMAYAのチャリティーへの道
T)

1533年天文233日、時は戦国時代、大坂城は仏教浄土真宗(一向派)の僧侶達が、権力斗争の戦闘に巻き込まれる場合に備えて、僧兵も擁して住し、乱世の中布教活動をしていた。

その大坂城から紀州ノ森(さぎのもり)別院へ武士の手が伸びるのを阻止する為、大坂と紀州を境するかつらぎ山脈を越え、後に武士による焼打ちに逢った根来(ねごろ)寺と鷺ノ森別院との間、紀ノ川河口付近の北岸、名草の(こうり)市の谷という谷合の農村に玉林山正恩寺という仏教道場を開いたのが、淡津祇圭總太夫(あわづぎけいそうだゆう)坊教則法師でした。

この仏教僧の一族は過酷な乱世を生き抜き 

いつわらず

                へつらわず

                   必ずものの身になるなり

という仏教の教えを継承しながら、16400年余の年月を紡ぎ、私の亡父は生まれました。

9歳の年に父親と死別し、正恩寺の第16代住職となった父は、大学卒業後193324歳で西本願寺の布教師として渡米しました。

アメリカは未だ開拓時代で世界恐慌のさ中でした。

父はカリフォルニアで布教師兼教育者として、日系移民の為の学校を数多く設立し、広大な北米大陸各地を移動しながら、精力的に活動していました。

 193930歳の年に、日系移民の師弟達や当時在学していた南カリフォルニア大学のアメリカ人教師達を引率して、大訪日団(日本見学団)と共にサンフランシスコから鎌倉丸で一時帰国しました。

日本各地を案内し親善交流会に参加し、大役を果たした後、単身1940815日上海行長崎丸にて中国に旅をしました。

時は日本軍の中国侵略に対し抗日戦争の真最中でした。

31歳の非軍属青年の独り旅は、戦没者慰霊が目的でしたが、漢詩を愛し、中国の思想家や偉大な仏教僧に関心を持つ青年の足を中国各地に運びました。3週間余り、孫文の足跡、鑑真(顔真)和尚の仏跡等々を廻る最中に、背広ネクタイにアメリカ製の冒険帽姿の父は、中国人民解放軍に囲まれました。
丁度毛沢東が頭角を顕し、蒋介石率いる軍と日本軍を相手に、粘り強い戦いを組織していた頃に当たります。
敵国人として、中国人の軍隊に独り囲まれた父は、漢詩に親しみ、中国語も少々たしなむ文学青年でしたが、
  「おまえは 何者か?」の問いに、
   とっさに、常時懐に持ち歩く習慣があった僧侶のお数珠を差し出してみせました。
              片言の中国語で 
               「私は僧侶だ」と言い、
合掌して坐した父に、中国の兵士達は何の危害も加えず、解放してくれました。

  後日、この独り旅の父の思い出話と

        「冒険をやるなら

                自分が何者であるのかを

              はっきりと示さなければいけない。」

             の言葉が、私の胸に深く残りました。

U) 
1939年〜1940

大訪日団の引率で一時帰国し、19408月〜9月 中国旅行を果たし、中国軍に囲まれた中、一命を取り止めた父は、再びアメリカに戻り、1941219日 32歳の誕生日記念で日本の母に送る為の写真撮影をしている。41日の誕生日には母弟妹たちの手元に元気な記念写真が届けられた。

しかし戦況は刻々と悪化し、6月頃からは、アメリカの敵国人指導者層は米軍の監視下に置かれた。

8月にはそんな不安な日系移民の子供たちを激励する為海水浴旅行を企画し、日系人達は後にその時の思い出を“人生最良の日と形容して、父に何人も手紙を送っている。

この年127日(日本時間8日)日本軍による真珠湾奇襲攻撃があり、米軍は日本人及び日系米人指導者5,234人を検挙監禁した。

戦争とは無関係な僧侶・教師の父にも、容赦なく軍の手が伸び、1942313日 戦時大統領令逮捕を受け、カリフォルニア州シャープパーク未決抑留所、エンジェル島要塞、ニューメキシコ州ローズパーク抑留所、サンタフェ抑留所に抑留された。当時アメリカには、135,435人の日本人・日系人が暮らしていた。
             1943430日、米国上院議員 軍事調査委員会発表)
        
       十万の同朋と苦を共にせん我にして
          

                 母待つと言えば 胸が痛めり
                       於エンジェル島、194292223
日米開戦後 多くの生徒や信者達を残して帰国する事を潔しとしなかった父は、以後 別々の場所に収容された教え子や信者達に、激励文を送り続けた。
この間 妹二人が当時貧しい日本に蔓延していた結核で死亡し、母も妹達の看病で感染し明日をも知れぬ命となっていた。
サンタフェ抑留所はニューメキシコ州の砂漠にあり、1945年7月16日 人類初の原爆実験を300q離れた、何の遮蔽物も山もないフェンスの中で目撃する事となりました。

父は、終戦後10カ月、何と5年半の監視抑留を解かれ、1946613日サンフランシスコ移民館より General Miegs 号によって日本に送還されました。

最愛の長男の帰国を信じ待ち続けた母の元に、やせ衰えてはいたけれど、身一つで帰り着いた父は、生きて感激の対面を果たしたのでした。

V)
1960年代後半から70年代

私の学生時代はベトナム戦争の時代でした。日本は第二次世界大戦後のベビーブームに生まれた学生が、政治に関心を持ち、国を挙げて学生運動に熱していた時期でした。

世界中のジャーナリストがベトナム戦争の報道写真を撮り、彼らのカメラを通して ベトナムの青年達が我々にメッセージを送っていました。
私も丁度青春時代の真っただ中でした。アメリカ軍による5年半に及ぶ抑留生活で身体を傷めてはいましたが、尚志気軒昂な父と快活な母によって、1533年に建立された寺の中で大切に育てられた、貧しくも温かな村の家庭から、巣立つ年頃でした。

ところが世間知らずで遅咲きの少女の前に現れたのは、建前と本音の食い違うエリート学生活動家でした。 熱烈なラブレターを何百通も交換した遠距離恋愛をたたき潰そうとする相手方の親の差別攻撃と相手の青年のひ弱さに悩む私に、ベトナムから命を張って侵略者に抵抗する同年代の青年がメッセージを送って来ました。私は海を越えて彼らに共感し、戦況の進捗に一喜一憂し、自分自身の斗いと重ね合わせました。当時私の斗いを支えてくれた大きな力がベトナムの若き勇士たちからのメッセージだったのです。
時は流れ、私も子の母となり僻地の無医村被差別部落の病院の創立責任者兼共同経営者になっていました。
心に少しゆとりが出来た頃、生来の旅行好きが頭をもたげ、若い頃苦しい斗いのさ中に支え合ったベトナムの勇士たちの事を思い出しました。
    「私に熱烈なメッセージを送って来た彼らは 今どうしているのだろう・・・」
ベトナムには、関西から直行便はなく、返還前の香港で乗り継ぎ、ベトナム国内はプロペラ機に乗り変えの時代でした。まだ、アメリカの経済制裁の最中で、恐らく貧困のどん底、戦争の傷は癒えていないと思われました。
 加えて、第二次世界大戦の時の日本軍の残虐さは忘れられていないと想像されました。
そんな中へ、かつての敵国・日本から単身で旅行をすると決心した私は、安全に 昔若かりし頃の私にメッセージを送って来た人々に出会うには、どうしたら良いのだろうと考えました。
  その時 思い出したのが亡父の言葉でした。
 W)

  「冒険をやるなら 自分が何者であるのかを
              はっきりと示さなければいけない。」
 僧侶の父は、お数珠を見せて、中国軍に囲まれたけれど、一命を取りとめた。
    私が懐に持っていく物は・・・聴診器だ・・・。

199412
亡父の声を聞き、聴診器と持てるだけの薬を持って、独りベトナムに降り立った私を、道を埋めつくすストリートチルドレンが出迎えた。
小さな貧困者クリニックには、診察を待つ長蛇の病人の列、行く度に7kg体重が減る程の汗をかき、友達がどんどんと増え、思い掛けず私のライフワークとなるベトナム医療チャリティーはこの様にして始まりました。
      「医療は国境をこえる」
         を実感する日々でした。