< 心優しき 骨太男子 ドクター Vo Xuan Son >
ベトナムから 脳外科学会に若い医師が招請されて 来日しているから 会って激励してもらいたい、と連絡が入り、丁度 私の病院にも近かったので 学会場へ会いに行ったのが、'96年頃だったと思う。
三名の脳外科医は喜んで 私と会食し、高野山へは 私の狭い車に詰め合って 乗っていった。
三人共、後向きの臨時席の狭い車中、 くねくねの山道にも へこたれず、存分に楽しんでいるのを見て 外国へ行くだけで疲れて 楽しめない日本の若者と比べて、大した体力と適応力だなあ、と感心した。
厳しいベトナム戦下で 少年時代を
過し、その頃は 経済制裁の最中で、医師の待遇もひどかった。 カツカツの暮らしの中で、勉強し、試験をパスして 日本への招請状を手にした 強者共(つわものども)であった。
中でも ひときわ 好奇心の強かったのが 思い起こせば ドクター カン ソン だった。 私の仕事、ライフスタイル、趣味、思想、すべてに感心を持ち、質問責めにし、一方彼自身どんな話題にも応じ、自分の意見を眼を輝かせてはっきり言う、おもしろい青年であった。
その次、彼から「北大阪の病院に研修に来ています」と連絡が入ったのが 二月真冬であった。 その病院の近くに勤務する会員さんに様子を見に行ってもらった。 暖かい国から来た青年は、暖房のない部屋で、震えながら 歯を食いしばって頑張っているとの報告にびっくりした。
風邪を引いては勉強も出来ないだろうから、細々した差し入れを会員さんに頼んだ。
彼にとっては 戦時中と変わらぬ、苦労の時代だった。 持参したベトナム ドンでは、衣類・食料も買えない物価高の金満国で、何としても目的の医療技術を学び取らんと、精神力だけで持ちこたえていた。
まじめな 勉学態度と研究心が評価され、何度か訪日する機会を得て、その都度 我々とひと時を共にした。
常に常に 前に進む事を考えている青年で、出会う度に新しい技術、研究の成果を 私にも 報告してくれた。
そんなある日「どうして ドクターMAYAは 遠い国から来た我々を、支援しているのか」と質問を受けた。
日本人の若者から この質問を受ける事は稀なのだが、ベトナム人の若手医師 からこの質問を受けるのは二度目であった。 彼が扉をたたいてくれたので 私も長い長い物語を始める事となった。
日本は 階級社会で、100年前迄は5階層に、現在は三階層に分けられ、差別構造の上に今の社会は成り立っている事。 おまけに、ベトナムとは違って 敗戦後 数十年たっても、戦勝国の軍隊の基地にされ、それ故の経済発展である事。 ベトナム戦争中にベトナムの青年達が、世界に向けて発したメッセージを 自分は丁度 差別を受けて苦しんでいた年頃に受け取ったこと。
二人にとって第三国語である英語を介して、我々は長い時間語り合った。
彼はチェコスロバキアに留学した時、現地の白人から受けた民族差別の思い出を詳しく話してくれた。
初対面の会食の時から 彼は 「ドクターMAYAとは何か波長が合いそうですネエ」 と笑いながら言っていた、その源が、少しづつ、はっきりしていく年月を、海を隔てて過した。
人生に全力投球する 大地に根差したベトナム男子の自信に溢れたカンソン医師との 会話は、国境のワクを越えて深く長く続くことになった。
ベトナム最大の病院で、又、各地の病院でも、彼は海外から学んだ技術や、自力で工夫した治療法を駆使して、手術と教育に力を尽くし、医師として 素晴らしく開花した。
臨床家として欠かせない 洞察力、思いやりに溢れた医師は、後進の育成にも心をくだき、多くの若い医師を分野を越えて 後見している。
こういう人格の医師が居るから、今のベトナムの繁栄と高い医療レベルが作り上げられたのだと確信できる。
六歳の時から 戦時中故、又、病気の父を持った為、自力で生きて行かねばならなかった カンソン少年は、北爆激しい時代 北ベトナムの山中で土を耕し、家族を食べさせた。
日本に来た時、奈良の大仏を見物に行ったことがある。威風堂々の立ち姿が大仏さんにさんに似ているなあ、と笑い合った。 その時、彼は 信心深いお母さんの土産に 美しい音色のする、”仏壇の金(きん)”を買った。
ベトナムにも”金”は売っているでしょうに、どうして わざわざ高価な日本の"金"を買うのか と聞くと、「これは、特別 良い音がする」 と言った。
当時のベトナム人にとっては 破格の値段がした”金”であった。

その後、数年して、我々がベトナムへ行った時、NPOの会費を日本人と同額払うと言ってきかなかった。 そしてその頃から 我々との豪華な会食は 彼がおごってくれる事になった。
2007年、彼は独立採算の多科集合型の有床診療所ビルを立ち上げた。あらゆる 最新式検査機器と治療設備を備えた 彼の診療所ビルは 正に彼流の金銭感覚の表れと思われた。 所詮「お金は通貨」 廻って来る時は 必要な病人の為に思いっ切り使う。
社会主義国も資本主義国も、必要に応じて飛び回った カンソン医師は、独立採算医療を始めて、経済システムを学ぶ必要性も感じたのか、長男を留学させ、その方面の勉強を応援している。時々、息子に会ってみてくれ、と言っていた機会がやっと巡って来て、2009年始めて 教師同行の時に会食した。 彼がどれ程家庭教育にも 心を配っているか 一目で解る、 愛されて育った純真な少年と、少し照れている父親がほほえましかった。
自分の生活を大切にし、学問への情熱に燃え、患者さん第一の医療活動を着実に遂行するカンソン医師こそ、数知れないベトナムの土になった戦争犠牲者達が待ち望んだ、希望の星の一つなのでしょう。

ドクターカンソン2世